魚器(NAKI)シリーズについて

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今週の土曜日から、表参道の「TRADING MUSEUM COMME des GARCONS」に、明和電機の魚器シリーズの一部をディスプレイします。それに向けて、現在アトリエでは、倉庫から魚器シリーズを引っ張り出して、クリーニング中。

オタマトーンから明和電機を知った方には、魚器シリーズはなじみが薄いと思いますが、今から18年前、24歳の大学生のときに作りだしたこのシリーズが、ナンセンス・マシーンの出発点となりました。

この魚器シリーズから独立して、TSUKUBAシリーズや、EDELWEISSシリーズが生まれたので、本当にすべてはここから始まった、という感じです。
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魚器シリーズに取り組み始めたには、大学院の1年生の終わり。まだ23歳でした。そこのころは当然「明和電機」なんて思いついてもいない、ただの美大生。「これで食える!」という技術も自信もない。ただ、なんとなく「芸術家として生きていきたい」という思いだけがありました。

しかし、自分の表現をふりかえったとき、どこか厳密でない部分がある。自分とは何か?表現とは何か?世界とは何か?・・・すべての問いは同じことを示していて、その答えがわからない。

目の前に大きな問題があるとき、人は混乱をします。しかし人間には理性というものがあり、大きな問題をすこしずつ、すこしずつ読み解いていく能力を持っています。厳密性という武器を使って、僕は自分の芸術上の問題を読み説いていきました。そして「魚」というシンボルにたどり着きました。

このシンボルはあまりに私的なものなので、科学のように他者と共有できるものでありません。ただし、だからといって、コミュニケーションが不可能かというとそうではなく、僕はそのシンボルについて、論理的に語る自信があります。

これはどういうことかというと、「独断であっても、自分の内にあるイメージや言語に対し、厳密性のある論理をつみあげていけば、ひとつの世界観ができあがる」ということです。これは科学ではないので、科学的な手法を好む人は、最初から回避する思考法です。ですが、こと芸術というジャンルにおいては、これほど強力な手法はないと思います。

妄想は、それが妄想と意識したとたん、人々はブレーキをかけてしまいます。でも、その妄想に制約をつけずに加速させ、かつ論理的な厳密性で締めあげれば、奇妙で魅力的な世界が生まれてくる。そのことを魚器(NAKI)シリーズで体験しました。

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