明和電機はもともと、うちの父親が作った会社である。
つまり社長であったわけだが、社長というにはあまりにも自由すぎる人であった。
ドリームは持ってる人ではあった。
障害者を従業員として雇うなど、なんともならん社会の弱点に対し、
ユートピアを描いて向かっていく部分があった。
もともとエンジニアなので、美しい図面を描く人であった。
障害者向けの作業器具などの工夫もしていたようであった。
しかし、いかんせん、経営の素質がなかった。
ドリームを現実に落とし込み、お金を回していく辛抱がたらん人だった。
山にはよくつれていってもらった。
白樺の枝で、刀を作ってくれたのを覚えている。
「明和電機会社案内」の中で、
「わしが息子に教えたのは、野グソのしかたぐらいだ」
と言っている。
父が作った明和電機が倒産したのは、僕が小学校の6年生のときだ。
それから父とは別居。おとどしに亡くなるまで、僕は10回もあってない。
会社をつぶし、母に迷惑をかけ、恨んでいた時期もあったと思う。
忘れてしまったが。
ただ、今思えば、そのダメダメな父が持っていたユートピアには、
強烈の惹かれていたのだ。
だから、今、父親と同じ制服を着て、明和電機をやっているのだと思う。
父親は、僕に、「0000になれ。」と、言ったことはない。
母親も同じだ。
生きること、食ってことでせいいっぱいだからそんなことをいう暇など
なかった。
晩年の父は、閉鎖系モデルの実験農場の開発をやっていた。
「信道、継がんか、この研究」
と電話で言われ、茶封筒にその実験棟の図面が送られてきたが、
明和電機と芸術に本業を決めた僕には、背負う余裕はなかったので断った。
それはしかたない。
男として父は父の研究に没頭したのだ。
僕には僕の研究がある。男として。
父もわかっているだろう。
親は、自分の道を、たとえジジイになっても突き進むべきだ。
子供の未来に自分の夢をたくす暇があったら、
死ぬ瞬間まで、自分の夢にエゴイスティックに時間をかけろと思う。
医者になれと育てた子供が、人を危め、自分の顔を手術してまで、逃亡した。
子供はそれではじめて仕送りではなく、自分の稼ぎでメシを食って、
生きている実感を得た。
なんなんだ。それは。
親も、子供も、暇すぎる。
膨れ上がったユートピアを、棺おけまで持ち込むぐらい、
余裕のない人生を自分は送りたいぞ。