展覧会にむけた準備で、むかし作ったプチプチをいっきに潰す装置「プチプチパンチ」をひさしぶりに箱からだして驚いた。錆まくりである。アルミのボディなので、鉄ほどひどくはないが、それでもあちこち白く粉をふいたようになっている。
自然現象だからあたりまえなのだが、毎回、この「錆」には驚いてしまう。なぜなら自分の頭の中にはいつも作ったときのピカピカの状態のイメージがあり、それは錆ないからだ。とくに明和電機の製品は「機械」でもあるので、その機構や設計図のイメージも頭の中にある。それはまったく劣化しない。しかし、目の前にある物体はそれとはちがって古くなっている。このギャップに驚くのである。
たとえばむかしの自分のCDを聞いたり、本を読んだりしても、「うーん。90年代ぽいな」という古さは感じるが、あくまでのそれは今に時代に対しての古さであり、相対的である。音も文字もデータなので、それ自体は古くならない。しかし、金属で作った製品が錆びるというには、作ったときからどんどん変容していき、最後は朽ちる、という絶対的なものだ。
最近、ロシアから輸入したソビエト軍の懐中電灯を輸入したものを磨き、修理し、塗装して明和電機式で売っているが、これも輸入したときは「錆まくり」である。でも磨いていくのが楽しく、ピカピカになると達成感がある。「きれいになったね」というマイ・フェア・レディな気持ちになる。
では、同様に「プチプチパンチ」も磨いてしまえばよいではないか?となるのだが、そこではたと研磨剤をにぎった手が止まる。「この錆は、時間が作ったものだ。そこには明和電機の歴史がある。これをふきとってよいのか?それは古い仏像の侘び寂びな顔に、新しい絵の具で色を塗るのと同じではないのか?」と。
もし、「プチプチパンチ」を、いまだに明和電機のライブステージでつかっていたならば、躊躇なく磨くだろう。なんなら新しい部品をつけたり、配線をやりなおしたりと、ヤンキーがバイクをいじくるように改造しまくると思う。しかし、今の「プチプチパンチ」は、展覧会でしか御開帳しない歴史的資料となっている。
うーん。どうしたもんか。いまのところ、まだ磨かずにいる。気持ちの整理がつくまでは、そのままにしておこう。