従姉妹がガンで亡くなったので広島に行ってきた。39歳という若さだった。ガンが見つかって一年間の闘病生活のすさまじさ、悲しみの深さは、葬儀で落ち着いて見えるおじさんとおばさんの振るまいから、逆に感じとれてしまった。高校生の子供がふたり、旦那さんの、まだまだこれからという矢先で無念という葬儀の言葉がいたたまれなかった。
人間は巨大な思い出の固まりだ。だからいなくなったときの喪失感も巨大だ。その思い出を一番たくさん抱えているのは親だ。だから親から先に逝ってはいけないと思った。なんで人はあっけなく消えてしまうのだろう。なんでだ、なんでだ。すべての過去の人々が同じことを問い続けているのに答えがない。
お通夜には親戚が集まった。土佐家も含めて、親戚の人数は多い。僕の姉は5人も子供を生んでいる。もうすぐ90歳に近づいている元気なおおおばちゃんから、小学生まで、いろんな年代が集まる。明和電機の社長も、そんな中では「のんちゅん」という未熟なキャラクターになり、おじさんから説教をくらう。食えてんのか?もっとやること絞った方がええんとちゃうか?など。
お通夜は女衆は引き上げ、男衆が残って従姉妹に付き合った。飲んで、食べて、雑魚寝して、お別れの前の夜を過ごした。人間はもちろん一つの生命だけど、こうして血が繋がった者たちで過ごすと、彼らの中にも自分という存在が分散しているのかも、と思う。
人の命はあっけなく終わる。だけど生きている者は生きている。のんくん兄ちゃんは面白いものどんどん作って、命を続けててねと、遺影の中で笑う従姉妹に言われた気がした。
広島から東京に戻ると、やはり閉塞感や不安感が充満しているけど、こんな中だからこそ、しぶとく、したたかに生きるぞ!と、なんだかエネルギーが沸いてきた。
生きている者は、生きている。だから、しっかり生き続けよう。