なぜ歌う機械を作るのか?

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「そもそもなぜ、歌う機械を作るのですか?」
と、ボイス計画展のトークショーの後、観客の女性に聞かれた。

そうか。歌う機械を作ります、という宣言をして、その思いに至る開発の経緯を展示で紹介したのだが、僕が歌う機械を作る根源的な欲求が、彼女にはわからなかったようだ。

外堀を埋めるような理由としては、「いろいろ楽器を作ってきたけれど、やっぱり最後は人間の声という、”肉の楽器”を作ってみたい」というのがある。生物学好きな僕としては、バイオメカニクスの典型である人工声帯、フォルマント、そしてそれの制御プログラムは、なまめかしい機械としての魅力がそこにはある。エンジニア的な制作欲求もあるし、澁澤龍彦のような好奇心もある。

答えとしては、これで充分なのだが、実際はそう簡単にはいかない。

たとえば僕は1995年ごろから2001年まで、「サバオ」というキャラクターに取りつかれていた時期がある。13週目の胎児のキャラクターで、最終的には、そのキャラクターのマスクをかぶり、歌い踊った。明和電機という受け皿があり、普段の僕が「社長」という理性的な役を演じているので、30歳後半の男性が奇妙なマスクをつけて歌い、踊っても、「へんな奴」ですんだが、これをたとえば村社会の中で突然やったら、狂人である。

僕自身の中では、胎児のマスクをかぶり、歌い踊ることは、必然であった。その論理性を説明しろ、といわれれば、答えられる。拙書「魚コードのできるまで」では、簡単にそれについて書いた。だが、その論理性そのものも、一般の方は理解しにくい。共感のベースそのものが違っているからだ。

一事が万事である。

魚に声を取られた漁師。
13週目の胎児の仮面をつけて歌う儀式。
女性器に似た形の、声を出す器官を顔に持つ、歌う機械。
オスの服従と威嚇の象徴である「咆哮」をあげる犬の装置
すべての共感を遮断する笑い声を発声する装置

「声」というテーマで、ズバンと切り取ったこれらの不可思議な現象たちを、すべて理解してください、というのは難しいことである。まじめにやったら、そのテーマひとつひとつだけで、展覧会を開催できるほどの圧縮率がある。ぶっちゃけ、僕自身もその全体を追い切れない。

ボイス計画宣言展は、俯瞰であり、過去と未来の一部であり、鑑賞者の居場所を決めにくい展示であったと思う。ただ、今、僕が、やらなければならない展示だったことは確かである。

さて、冒頭のセーモンズⅡのイメージ。
次回の展示会では、「アルミニウムの銀と、カーマインの赤が反響した、歌う装置の実験部品たち」をずらりとならべてみたい。またもや不可思議が増えてしまうかもしれないが・・・・これは仕方がない。

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