絵画における前衛性を考えたとき、新奇なるものは、20世紀に出尽くしてしまった。モチーフの話ではなく、コンセプトも含めた手法の話として。だからまともに絵画史を意識したら、今日の芸術家は絵を描けなくなる。
その呪縛はとても大きく、僕が画家ではなく、機械表現を選択し、かつ電気屋のスタイルで発表するまでにいたったのは、その影響といっても間違いではない。
「そんな呪縛、無視して、好きに描けばいいじゃない」。
という意見には耳をかさない。もし僕がそれを最初に選択していたら、明和電機は生まれなかったし、魚器シリーズも、EDELWEISSも、オタマトーンも生まれなかった。それほど絵画史は、芸術家を純粋な創造性の境地に追い込む。だから面白いし、手ごたたえがある呪縛なのだ。
ただ。
今日は少し風邪気味のぼやけた睡眠の中で、気付いたことがある。絵画史が生まれるよりもはるか昔から、特殊な思考法として人間は絵を描いてきた、ということだ。
空を飛ぶものを作るのなら、紙の上に絵を描くよりも、紙そのものを折って紙飛行機を作った方が、はるかに現実的だ。にもかかわらず、人類は飛ばない飛行機の絵をたくさん描いてきた。それは、物理世界とはちがう理想が人間の中にはあり、それを簡単に取り出し、編集・構築することが、「絵を描く」ということで可能だからだろう。
言説的思考、数学的思考、と同じレベルで、描画的思考、というのがあることに気付いた。なにをいまさら、と思われるかもしれないが、シンプルにそのことを、この年になって気がついた。「気づく」というのは、大事なことである。効率化や演出ができるからである。
ほんと、この年になって、そんなものに出会うとは思わなかった。