うわっつらワールド

昨日の石黒先生との対談は、たいへん面白かった。

人間にそっくりなアンドロイドを作っている石黒先生は、機械であるはずのアンドロイドに対し、人間が感情を感じ、ときにアンドロイド操作している人間に対しても、皮膚感覚がフィードバックしてくるという。そのことから「アンドロイドにも心の表現はある」といい、逆に「人間にあるのは、こころの表現であって、こころそのものはない」と、断言されていた。

もちろん本当に人間にこころがあるかどうか、という問題はだれも答えが出せないのだが、たくさんの人々が当たり前に「人間にはこころがある」と思っている中で、まったく反対の立場から議論を出発する石黒先生の見解は、とても刺激的だった。

かつて、僕は「人は、歌手の歌ごころに感動するのではなく、歌を歌う演出に感動するのだ」というブログを書いた。機械を使って表現物を作っていると、石黒先生同様、そういう場面にぶちあたる。

「感情とはなにか?」という問題はとらえどころがないが、「感情表現とは何か?」という問題は、実際に現象としてとらえられる。「悲しい」という感情がトリガーになって、「泣く」という感情表現が人間はしばしば起こす。この感情表現を、役者や、ときにロボットが演出し、再現すると、鑑賞者はしばしば「悲しい」という感情を引き起こす。

映画、本、漫画、舞台、歌、ドラマ・・・・・僕らのまわりにあるものは、そうした演出された感情表現だらけだ。フィクションだけではない。友達関係、ときには家族関係の中であっても、演出された感情表現で付き合っている。

人間は「うわっつら」で生きているのだ。

このことは、まったく悪いことではない。もしその「うわっつら」が本質ならば、そこをより良くしていけば、人間関係はスムーズになり、もしかしたら、究極の世界平和がくるかもしれない。そしてなによりそのことがすばらしいのは、「感情」そのものは、手がつけれない難しいものだが、「感情表現」ならば、定量的に捕えられ、芸術的にも、工学的にも、いくらでも知恵をしぼって創意工夫ができる、とういことだ。

人間は感覚器のオバケだ。たくさんのセンサーの塊だ。それらを使って他者とコミュニケーションをしている、というのは、「うわっつら」からの情報だらけ、ということだ。さらにいえば、人間は自分が作り出した、さまざなメディア装置を取り付け、「うわっつら」を拡大している。そこにはすでに「うわっつらワールド」ができてしまっている。

「うわっつらワールド」は、情報と機械が構成要素に入っている。そして心の断片もそこにまぎれている。この文明進化はますます拡大するだろう。ということは、芸術家も、工学者も、心の解明のチャンスが増えているということだ。

「ヒューマニズム」とはそうした事実に、英知を持って誠実に向かうことだ、ということを、「人間にはこころはない」と言い切る石黒先生の「人間くささ」を感じならが、思ったのでした。

     

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