ツイッターで「ライフログ」についてつぶやきました。その補足です。
デジタル機器が発達し、データ保存が安価にできるようになったので、現在、むかしでは考えられなかった、生活の中のあらゆる情報が、残せるようになりました。
たとえばデジカメ。今の写真の撮り方は、「たくさんとって、あとでいいものを選ぶ」ですが、これはフィルムと印画紙の写真の時代では、考えられなかった。とにかくフィルムが高かったので、撮る方も、「しくじってなるものか!!」と、ベストショットを撮ろうとする。
そして撮られる方もその緊張感があり、、「高いフィルムなんだから、最高のポーズや表情をしてやる!」と意気込む。その結果、僕が小さい頃の写真を見ると、みんなキメポーズをしてるんですね。
これは僕だけではなくて、フィルム時代は、「しぇー」とか「がちょーん」とか、みんなオーバーなキメポーズで写ってる。でも、その結果、「思い出深い写真」が、アルバムの中にはあるんですね。
つまり「内容の濃い写真」が「少数」ある。
これがデジカメが普及することで、「内容の薄い写真」が「大量にある」になった。それらは、いわゆる「人生のログデータ」で、近年、あらゆる場所で、そういうデータがとれるようになったもんだから、それを解析して、未来を予測する「ライフログ」の研究が盛んになってきてます。
ここで、少し僕は疑問に思うのです。
大量のデジタルデータは、たしかに「そこに存在している」から、解析をしたくなるけれど、はたして、その意味があるのか?と。その作業に没頭することで、逆に未来を見る力が、なくなってしまうのではないか?と。
「未来は、過去からの逸脱にある」とするならば、過去にしばられすぎるのはいかがなものか?と。
もちろん過去を知ることは大切です。芸術の世界も、プロフェッショナルになるには、「芸術史」を学び、自分の表現の文脈を知るからこそ、そこからの飛躍ができます。
しかし一方で、そうした学習から「補集合(それ以外の世界)」を見つけようとする考えは、結局もとの「ART系」から飛躍できていないのです。
本当の飛躍は、その「ART系」そのものの外側にあったりします。それを見つけるには、パラダイムそのものを変えてしまわなければいけません。
たとえば進化で例えると、陸上を走る動物が、空を飛ぶためには、陸上で走ることの研究をいくらやってもダメなわけです。木に登って、
「あー、おれ、ここから飛び降りたら、死ぬかもしれんなー。でもやってみんとわからんもんなー」
という、走ることとはまったく逸脱した、冒険が必要なんですね。これがパラダイムを変える、ということです。
ライフログに縛られることの問題点は、その冒険、その発想になかなかなれないことだと思います。
芸術家は作品を作ります。
それは、最も圧縮率が高く、かつ自分が認識しやすいライフログです。自分が芸術家であってよかったな、と思うのは、そういう作品をたくさん持っていて、それを見ると、自分の歩んできた人生が、まるで結晶のように残っていることです。
しかし一方で、芸術家は、それに甘んじていてはいけません。
芸術家にとって、一番のライバルは自分の作った作品です。
そこからいかに逃亡するか、をいつも考え、実践しなければなりません。
さてさて、そんな明和電機の過去から未来までの製品が、ざっと見れる展覧会が
来週から始まります!!
おひまならぜひ、ご来場ください。
そしてもうひとつ、文化庁メディア芸術祭もはじまります!
明和電機は、「YUREX」が展示してありますよ。他の作家さんたちの作品というライフログも見れます。こちらもぜひ!