最近、18年前の「魚器」のことを、よく考えている。明和電機を始める前、僕が「あ!これで自分は芸術家になれるかも」という確信を得たときのことをです。
「自分はなぜ表現活動をするのか?」という、芸術家にとって、根本的な問題を考え続けていたんですが、そこで最後にいきついたのが、「不可解」というものでした。
僕はよく「ナンセンス」という言葉を使うんですが、これは「不可解」のことではありません。「不可解」を理解しようとし、なんとか意識のレベルまでひっぱりあげたのが、「ナンセンス」なんです。僕にとっては。だから、「ナンセンス」は「センス」の一種なんです。
「不可解」は、もっと根源にある、得たいの知れないものです。
「不可解」を話の出発点におくと、話の筋がとおりやすいので、便利なのですが、自分の思いとしては、そこにとどまることがとてもいやだったので、僕は絵を描くことをやめて、道具を表現手段にしました。情念と理性の間を選びました。
アニメや漫画、ゲーム、小説、・・・たくさんのコンテンツビジネスは、「不可解」をイメージのレベルまでひっぱりあげたものです。人間の普段の生活に起こったら、おかしなことばかりをネタにしています。僕はそういう表現は大好きなのですが、もし、自分が表現するとした場合、「イメージ」が、さらに理性によって、「ナン・センス」というシステムにまで作り上げないと収まりがつきません。
仮想の世界におけるおかしなこと、ではなく、この現実の世界に起こる、おかしなこと、を作りたいのです。
今から18年前、魚器の着想を得たとき、その自分の性分を発見しました。
そして、そこにいたるにはたくさん「あがき」ました。
そのプロセスを再分析したいのです。